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奮闘記

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2007-01-31 進化の「仕方」

_ 何を持って進化とするかが難しいのだが

東大で研究員をしていた頃に、研究室のポスドク・院生達と夜中に怪談で盛り上がったことがある。12、3人くらいはいただろうか、どの人も「あっちの世界のモノが実在してたら嬉しいよね」と考えていたことを覚えている。科学者という人間が周囲からどう思われているかはよくわからないが、「既存の科学が知らないこと」を毛嫌いしていると思ったら大間違いである。ユーレイでも何でもいいが、私達がまだよく知らないものや、解明されていないメカニズムで動いているものが「実際に」あるのなら科学者はむしろ喜ぶはずだ。そこには「これでまた新しい飯のタネが出来る」という打算的な思いもあるかもしれないが、基本的に科学者は好奇心の塊なので、自分が知らないことが世の中にあるならそれを嬉しく思う人種なのだ。何かにつけ、「そんなものは科学的ではない!」とテレビで叫ぶ人もいるが、その人にしても、多分に面白おかしくメディアによって作り上げられてしまっているだけで、実際はそれほど頑なに主張しているわけではないと思う(好意的に捉えれば、だが)。だいたい、科学に携われば携わるほど、普通はその適用範囲の狭さに悲しくなるものなのである。科学に出来ることはとても少ないし、さらにそこへその科学を使いこなせるかどうかという個人の力量や運なんかを掛け算して考えなくてはいけないので、ますます出来ることは減ってしまう。世の中には研究自体が好きで、研究さえ出来ればテーマは何でもよいという人もいるから、そういう人は「研究できること」を探してやり続ければ満足出来るかもしれないが、「知りたいこと」があって研究の世界に入ってきた人にとっては、この現実は歯痒いばかりだろう。

研究の世界が想像より地味だということも、研究者がよく味わう辛い事実の1つである。ただし、ここで僕が言っているのは、毎日の研究生活が地味だ、ということではない。それは当たり前である。芸能人のような、一見華やかに見える業界だって、生き残るには地味なことを積み重ねなければ続くわけがない。僕が言いたいのはそっちの地味さ加減ではなく、科学、というか、ジャンルは何でもいいのだが、一般的な学問の進化・進歩の地味さ加減の方である。ある相対論研究者が著書の中で書いていたが、「科学の進歩は、紙に水が染み込む様に、じわじわと広がっていくもの」なのだ。そして、気付いたらこんなにも広がっていた、という類のものなのである。僕はこの世界に入るまでは、進歩というと階段状のものを思い浮かべていた。それこそ、毎日が小さな階段を登るような「進化の連続」だと思っていた。しかし実際に仕事をしてみて、「水が紙に染み込んで広がっていく」感じとは実にうまい喩えだと思うようになった。ゆっくりゆっくりと、しかも平面的に広がっていくものなのだ。目に見える立体的な発展は、紙を水が全て埋め尽くすまで、ない。確かに、どこかでパラダイム・シフトは起きる。起きなければ、困る。しかし、新しい紙の必要性が叫ばれるのは、水が全て紙を浸しつくして飽和したときなのだ。きっと「進歩」というのは、それが何についてであってもそういうものなんだろう。

人間なら誰しも、自分がその新しい紙を用意する人間になりたいと思うのではないだろうか。無論、そこには名誉欲もあるだろうが、自分を縛っている全ての理をものともしない、新しい枠組みを欲するのが人間というものだ。それを見たくてしょうがないはずだ。そのためには、まずは紙を浸しつくさねばならない。自分が住んでいる大海を、とりあえずは泳ぎ切ってみるしかない。


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