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奮闘記

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2007-01-01 明けましておめでとうございます

_ 今年も宜しくお願い申し上げます

2007年を迎えました。4月にカナダに来て、長かったような短かったような、何とも言えない不思議な時間を過ごした気がします。僕は何をするにも慣れるまで時間が掛かる方なので、最初の半年くらいは英語はもちろんのこと、それ以外の様々なことに関してもストレスを感じていました。自分の「肝の座らなさ加減」(こんな言葉があるのかどうかは知りませんが)には自分でも呆れるほどですが、おかげさまで最近になってようやく自然体で過ごせるようになってきました。

年越しは、普段から仲良くさせて頂いている日本人の方のおうちに、ウォータールー在住の日本人やカナダ人で集り、15、6人で賑やかに過ごしました。皆で持ち寄った刺身やお寿司、そして年越しそば、やっぱり日本食はうまかった!カナダでこんな日本風の年越しが出来るとは思っていなかったので、しみじみとありがたいなあと感じました。小さい子供達がはしゃぐのを見たときは、自分が小さかった頃に年末・正月に親戚で集るのがとても楽しかったのを思い出しました。あの頃はコタツに入って、親戚達がワイワイ言っている声を聞きながら眠るのがとても好きだったなあ。

元日は妻が作ったおせち料理とお雑煮を食べ、ここでもやっぱり日本食はいいなあと再度確認しました。これで温泉があれば最高なんですけどねえ。僕が知る限り、カナダ人でも日本で温泉に行ったことのある人は「また行きたい」と皆言っていたので、あの良さがわかるのは何も日本人ばかりじゃないようです。そりゃそうですよね。あの良さは文化とかに関係なく、体で感じることですもんね。是非カナダにも銭湯でもいいから作って欲しいものです。それからもうひとつ、当たり前だしわかっているけれど、神社がないのは残念。初詣に行かないと、何というか、やるべきことを済ませていない感じがするんです。仕方がないので、日本の方角を向いて拍手を打っておきました。

さてさて、海外学振の任期もあと1年3ヶ月。残りの期間、やり残したことのないように自分の直観を信じて突っ走ってみようと思います。今年も宜しくお願い申し上げます。

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2007-01-05 いい加減にやるくらいなら、やらない。

_ 他人の目ばかり気にしてるとそういうことになるね

本当にしっかり理解したことは忘れないものだが、僕は中途半端な理解のまま進んできたのか、研究をしていても論文や教科書を見直さなければならないことが多い。開いた教科書に重要なポイント(だとそのときは思っていたこと)が書き込まれていることもあるのだが、それを書いた記憶が全くないときなど、自分の記憶力やいい加減さにがっかりする。全てのことを網羅するのはもちろん不可能で、「どこに何が書いてあるか」「何を調べたら載っているか」を知っておくことが大事なのは間違いないが、そのレベルに達するにも、「ポイントはこれだ」とひとことで言えるまでには理解しておかなければならない。

いい加減にやるなら、やらない方が時間が無駄にならない分よっぽどマシなわけだが、その観点からすると、だいぶ無駄に時間を過ごしてきてしまったものだなあと思う。全てのことは必ず役に立つもので無駄なものなど一切ない、という「見方」が出来ることはもちろん知っているが、例えば空手のオーバーワークで昔怪我をした膝や、バイクで事故をしてから時々痛むようになった右肩など、体を壊してしまったことは正直「無駄」だったなあと思う。無論、経験という観点からではなく、壊す意味が無かったということだ。得たこともあるが、失ったものも多かったのでは、欲張りな僕としては納得がいかない。大学浪人したことなんかの場合は、確かに時間も余分に掛かったし、親に心配掛けてしまったが、おかげで出会えた友人や得ることが出来た経験からすると「昔に戻って勉強し直して、現役で受かることが出来たらなあ」と思わないのだが(もしそうだったらどうなっていたんだろうという興味はある)、怪我とかそういうことは過去に戻って避けることが出来たらなあ、と単純に思う。経験しないで済むなら経験しないほうがいいことは、やっぱりあるのだろう。物質的なことはたいてい元に戻せないものだから、慎重に扱ったほうがいいのかもしれない。もちろん、時間も。いい加減にやるくらいならやらないという指針は守らねばなるまい。

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2007-01-30 鏡が曇れば太陽も照らない

_ Canadian Winter

今日は比較的暖かい。夕方だが、今はマイナス6℃。昨日はマイナス20度まで達した。とはいえ外にはほとんど出ないので、寒さを感じることはあまりないが。実家の長野市は日本では寒い方だが、さすがにマイナス20度にはいかない(市内ということもあるし)。今週末はさらに冷え込むようだし、ちょっとだけ楽しみだ。ちょっとだけ。

雪は長野の方が圧倒的に多い。確かにこっちも降るし、気温が低いので残るが、せいぜい30cmくらいである。しかもやたら融雪剤を撒くので、道路にはほとんど雪がない。その代わり融雪剤のためにどの車の車体も白くなっている。多くの人が予想するとおり、こっちは何かにつけ極端である。「繊細」という言葉の認知率を調べたらさぞかし低いことだろう(逆に日本では「大胆」という言葉の認知率が低いかもしれないが)。除雪車も頻繁に来る。こっちに長く住んでいる人に「除雪車は(雪が降ると)すごく早く来るよ」と聞いていたのだが、なるほどすぐに来る。しかもかなり速え。どうやら「早く」だけでなく「速く」でもあったようだ。こっちの雪がかなり軽いパウダースノーだから出来るのだろうが、雪で見通しもあまり効かない状況で飛ばしまくる除雪車になかなかの男っぷりを見た。ただしこの間事故っているのも見た。まあ、そうなるわな。

_ 風呂の鏡

日本の風呂は、洗い場に鏡が付いていると思う。温泉や銭湯の洗い場なんかだと、蛇口の上に1人1枚ずつ必ず付いているし、家の風呂でも普通そうだろう。一方、西洋の風呂は基本的にユニットバスであり、その場合、基本的には壁に鏡が付いていないのではないだろうか。もちろん、洗面台には付いている。しかし、「体を洗うスペース」、すなわちユニットバスなら浴槽のある部分ということになるが、そこには鏡が普通無いと思うのだ。少なくとも、今自分が住んでいる家の風呂はそうだし、学生時代にユニットバスの部屋に住んでいたこともあるが、そこは洗面台にしか鏡が無かった。さて、それが一体何なのかというと、僕は、「ユニットバスだと自分の裸を見る時間が少なくなる」ということを指摘したいのである。

僕は痩せ型だが、そんな僕でも30歳を過ぎて無駄な肉が付いてきたような気がする。周りからは全然肉が付かなくて羨ましいと言われ続けているが、本人は体型がちょっとずつ変わっていることに気付いている。まあ、ハードな稽古もしていないので当たり前だ。と、それはどうでもいいのだが、日本にいた頃は風呂で体を洗いながら、「部活辞めてから筋肉が落ちたなあ」とか「わき腹に肉が付いてきたなあ」とかしばしば思った。しかし、こっちに来てからそんなことを感じる機会がグッと減っているのだ。それもそのはず、洗っているときに鏡が目の前にないから、自分の体型をまじまじと見る時間がほとんどなかった、というわけである。これに気付いたとき、はたと思い至った。日本の標準的な風呂のように、セパレートタイプの風呂に変えたら、北米大陸でも肥満って減るんじゃないか?と。いろいろなダイエット法を試す前に、体重計の針を見る前に、自分の体型を鏡で見る。これは大事だろう。

まあ、脱肥満のアイテムになるかどうかはさておくとして、古来から日本では鏡は非常に重要視されてきた。神棚にも鏡がある。天照大神を象徴するのが三種の神器の一つ、八咫の鏡だからだ。さて、天照大神といえば太陽の象徴。ではなぜ太陽が鏡か。単に光を反射するからというだけではあるまい。光で魔を払う、なんてのも答えになっていない。なんで光で魔を払えるのか、が問題になるからだ。古代の人は姿を映す鏡に神秘的なものを感じていた、なんてのはよくあるが、まだ浅い。神道の本義をわかっちゃいない。僕はこう考える。「自身の中にこそ、太陽があるから」。

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2007-01-31 進化の「仕方」

_ 何を持って進化とするかが難しいのだが

東大で研究員をしていた頃に、研究室のポスドク・院生達と夜中に怪談で盛り上がったことがある。12、3人くらいはいただろうか、どの人も「あっちの世界のモノが実在してたら嬉しいよね」と考えていたことを覚えている。科学者という人間が周囲からどう思われているかはよくわからないが、「既存の科学が知らないこと」を毛嫌いしていると思ったら大間違いである。ユーレイでも何でもいいが、私達がまだよく知らないものや、解明されていないメカニズムで動いているものが「実際に」あるのなら科学者はむしろ喜ぶはずだ。そこには「これでまた新しい飯のタネが出来る」という打算的な思いもあるかもしれないが、基本的に科学者は好奇心の塊なので、自分が知らないことが世の中にあるならそれを嬉しく思う人種なのだ。何かにつけ、「そんなものは科学的ではない!」とテレビで叫ぶ人もいるが、その人にしても、多分に面白おかしくメディアによって作り上げられてしまっているだけで、実際はそれほど頑なに主張しているわけではないと思う(好意的に捉えれば、だが)。だいたい、科学に携われば携わるほど、普通はその適用範囲の狭さに悲しくなるものなのである。科学に出来ることはとても少ないし、さらにそこへその科学を使いこなせるかどうかという個人の力量や運なんかを掛け算して考えなくてはいけないので、ますます出来ることは減ってしまう。世の中には研究自体が好きで、研究さえ出来ればテーマは何でもよいという人もいるから、そういう人は「研究できること」を探してやり続ければ満足出来るかもしれないが、「知りたいこと」があって研究の世界に入ってきた人にとっては、この現実は歯痒いばかりだろう。

研究の世界が想像より地味だということも、研究者がよく味わう辛い事実の1つである。ただし、ここで僕が言っているのは、毎日の研究生活が地味だ、ということではない。それは当たり前である。芸能人のような、一見華やかに見える業界だって、生き残るには地味なことを積み重ねなければ続くわけがない。僕が言いたいのはそっちの地味さ加減ではなく、科学、というか、ジャンルは何でもいいのだが、一般的な学問の進化・進歩の地味さ加減の方である。ある相対論研究者が著書の中で書いていたが、「科学の進歩は、紙に水が染み込む様に、じわじわと広がっていくもの」なのだ。そして、気付いたらこんなにも広がっていた、という類のものなのである。僕はこの世界に入るまでは、進歩というと階段状のものを思い浮かべていた。それこそ、毎日が小さな階段を登るような「進化の連続」だと思っていた。しかし実際に仕事をしてみて、「水が紙に染み込んで広がっていく」感じとは実にうまい喩えだと思うようになった。ゆっくりゆっくりと、しかも平面的に広がっていくものなのだ。目に見える立体的な発展は、紙を水が全て埋め尽くすまで、ない。確かに、どこかでパラダイム・シフトは起きる。起きなければ、困る。しかし、新しい紙の必要性が叫ばれるのは、水が全て紙を浸しつくして飽和したときなのだ。きっと「進歩」というのは、それが何についてであってもそういうものなんだろう。

人間なら誰しも、自分がその新しい紙を用意する人間になりたいと思うのではないだろうか。無論、そこには名誉欲もあるだろうが、自分を縛っている全ての理をものともしない、新しい枠組みを欲するのが人間というものだ。それを見たくてしょうがないはずだ。そのためには、まずは紙を浸しつくさねばならない。自分が住んでいる大海を、とりあえずは泳ぎ切ってみるしかない。

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