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奮闘記

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2006-08-20 日本的価値観

_ 開かれた科学

カナダに来てしばらくした頃、ボーっとテレビのチャンネルを回していると『Celebrating Science』という番組があるのに気が付いた。これはペリメーター研究所が製作協力している番組で、ペリメーターやその他の近隣の大学で行われた様々な講演の模様を放送しているというものだった。僕が最初に観たときは、理論物理学の大御所ペンローズさんが量子力学の話をしていた(大御所を「さん」付けで呼ぶのも何だか妙な話だが、僕らの業界では一般的に「〜先生」という呼び方はせず、さん付けで呼ぶ。とはいえ外国ではファーストネームで呼び合うのが普通だから、その意味での違和感も覚えるが)。他にも量子宇宙論のハートルさんや、2004年にノーベル物理学賞を受賞したウィルチェックさんが講演している回などを観た。今日は宇宙物理学者のコルブさんの講演を放送していたし、昨日は僕の受入教官であるマイヤーズさんの 『Superstring Adventure』という講演の模様を放送していた。他にも量子情報の回などもあった。まだ物理学以外の回は観たことがないのだが、題名だけから察するには特に物理学のみに限っていないように思われる。

この番組、僕が観た数回だけでも、名だたる物理学者たちが講演していることがわかる。しかもこの番組は毎週放送しているのである(ひょっとしたら通年ではないのかもしれないが)。日本でも物理学者による講演会は少なくないが、それを毎週どこかのテレビ局で放送しているというのは聞いたことがない。CSとかにはそんな番組もあるのかもしれないが、ここカナダで放送しているこのチャンネルは特に専門チャンネルというわけではない。欧米諸国では科学に感心を持っている人が多いと以前から聞いていたが、実際その通りなのだ。ただし、日本でも宇宙に関する関心は高いようで、宇宙関連の研究者が講演するとなるとたくさん人が集まる。それに対して、こっちではどちらかというと素粒子や物理基礎論のようなものに興味を持っている人が多いようだ。数年前にブライアン・グリーンが超弦理論について書いた本『エレガントな宇宙』がベストセラーになったのもひとつの証拠と言えるだろう。

そうした一般の人の科学に対する関心もさることながら、それに応える側のサービスもなかなか充実している。例えばペリメーター研究所ではこうした講演会やテレビ番組の製作だけでなく、様々な勉強会も行っている。この間は、学校推薦や抽選などで世界中から高校生を集め、1〜2週間の勉強会を開いていた。そこでは研究所の教授・ポスドク・大学院生達が高校生に超弦理論やブラックホール、宇宙論の授業を行っていたのである。いくら物理に興味がある高校生とはいっても、専門的な深いことを教えることは難しいが、そもそもそんな必要などなく、自分達研究者がやっていることの面白さを伝えることがこの勉強会の目的である。教授達ばかりでなく、院生達も授業を持っているというのもとてもいいことだと思う。やっていることの面白さを伝えられるのは、何も業界に長く住んでそれを知り尽くした人間ばかりではない。まだ知識も経験も浅いが、がむしゃらに取っ組んでいる人間特有の情熱もまた、次世代の連中の心をつかむだろうと思うからだ。

また、高校の物理の先生達による勉強会なども催されていた。それに参加している先生はよほど意識の高い人達だろうと思うが、高校物理を教えるのに大学の学部レベルの物理知識だけで足りるかという問題を真剣に考えたことのある人なら、そうした勉強会に定期的に参加するなり、自身で研鑽を積まなければいけないことをわかってもらえるのではないだろうか。僕は大学・大学院時代を通じて9年間塾講師のアルバイトをしてきたが、様々に批判の対象となってきた大学受験「ごとき」の問題ですら、これを理解し切って教えるためには生半可な知識ではいけないと痛感させられた。人に物事を教えるには、背景にその何倍もの知識やあらゆる角度からの深い理解が必要となるからだ。しかも人は「教える相手がその力量の何割かでここまで教えられるのだ」と感じたときにその人の言に素直に従えるようになったりするものだ。子供というものは意外とよく見ているもので、常にいっぱいいっぱいの知識で教えている人になどついてこない。ましてや、背伸びして借り物の言葉で教えている先生など、信用されなくて当然である。全力で教えるということは、自分の持ち駒を全て使い切ってしまうことでは決してない。持ち駒を増やすことに全力を傾けるべきなのだ(教育に関するこうした僕の考えについてはまたいずれ機会を設けて述べていきたいと思っている。)。

ところで研究者の視点からすると、こうした講演会や勉強会への協力は研究時間が割かれるのでそうホイホイ引き受けれらるものではないと思う。講演にしても、喋っている1、2時間だけでことが済めばよいが、いくら知っていることを話すだけと言っても準備には時間が掛かる。良心的な研究者ならなおさらである。しかし、こういうことをやっていかねば、僕ら研究者の先も無いのだと思う。次の世代が現れなければ業界としては滅びてしまうからだ。もし、自分のやっている研究が重要だと胸を張って言えるのならば、それを滅びさせるわけにはいかないはずだ。また、自分の研究費の出所がどこにあるか理解しているなら、社会に還元することも常識である。して当然の奉仕であろう。自身と社会を繋ぐ意味でもやったほうがいいだろう。象牙の塔に篭っていてもろくなことはない。自身のためにも、世間のためにも。そしてまた、科学者で無い人達は科学者が何をやっているのか目を光らせていたほうがいいとも思うのだ。果たしてどれだけの意味があることをしようとしているのか、科学者は嘘を付いていないか、と。もちろん、こうしたことは科学に限ったことではない。政治などは目立つものなので誰しもその動向に注目しがちなものであるが、本来、どんな仕事であってもそうした視線に晒されるべきなのだ。少なくとも自問くらいはすべきななのだ。誰しもが自然な前提だと思っていることが本当に自然かどうか、問い詰める姿勢を忘れてはいけない。

ただしそのときは、決して近視眼的な目で見てはいけないだろう。最低でも千年先は見なければなるまい。どんなことであっても、百年先なんてけちなことを言っているようでは、小さく縮こまった窮屈なものしか出来上がらない。本当の意味で自分の子孫を大事にする人間も出来ない。人類は今までそうやって失敗してきた。目の前にいる人達の幸せしか想像出来ないようでは話にならないのだ。もちろん、今すぐの助けを必要としている人達には、先を見る前にすかさず駆けつけなければ意味が無い。その二つを同時に走らせなければならないのだ。足元と水平線のずっと先とを同時に見なくてはいけないのだ。僕は日本人にはそれが出来ると信じている。世界に先駆けてそういったものを打ち出していくのは日本の役目なのではないかとすら僕は思う。「日本的価値観」が必要とされる時代は必ずやってくる。日本人が持つ、互いに矛盾するものを矛盾無く和する能力、の出番ではないだろうか。


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