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奮闘記

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2006-07-20 宝島の地図

_ どうにも戻らない時間か、それともまた始まるのか

多くの人がきっとそうであるように、僕は金曜日が好きだ。正確に言うと、金曜日の夕方からの時間が好きなのだ。僕が小学生の頃はまだ週休2日制ではなかったので、翌日の土曜も午前中は授業があったのだが、小学生にしてみれば土曜の授業などほとんど遊びのようなもので、金曜日はその頃から「休みの前日」という位置付けだった。それだけでワクワクするには十分過ぎるほどだが、さらに金曜日の夜中にやっていたテレビ番組が気に入っていた。特に好きだったのは夜11時からやっていた『謎学の旅』と、その後確か11時半からやっていた『噂の達人』という番組だった。『謎学の旅』は、例えば「おじやのルーツ」はスペインの「オジャ・ポドリーダ」とか何とかいう名前の料理にある、という感じで様々なものの誕生秘話や、「かごめかごめの歌に隠されたメッセージとは何か」というような歴史ミステリーなどを紹介する番組だった。

僕は「根源」を覗くのが好きで、だからこそ物理における考古学とも呼べる宇宙論を研究している。超弦理論はそのための道具である。こうした科学というものは単なる説明体系であり、とどのつまり「最も尤もらしい屁理屈」である。そのため、ある現象を間違って理解したり勘違いしている場合には実際の現象と理論との間に食い違いが現れて、辻褄が合わなくなってくる。その変更があまりにも大きかったり、どんなに取り繕ってもすぐに新しい綻びが見つかる場合は「どうも根本から間違っていたようだ」ということになって、ガラッと異なる理論に移らざるを得なくなる。何しろ物理は「スポーツ」ではないので、いくらカッコいいルールの下で面白い結果が出たとしても、自然界がそのルールを採用していないことは往々にしてある。現実を記述するものではなかった、ということである。ちなみに超弦理論は今のところその大雑把な形すら見えていないため、はっきりいって、合っているのか間違っているのかすらよくわからない状態にある。我々研究者は日々、合っている証拠、もしくは間違っている証拠を探そうと苦心しているのである。超弦理論を信仰している人や、ただ単に飯の種として割り切っている人はいても、それが正しいと確信を持っている人などほとんどいないのではないだろうか。世界中の研究者に聞いたわけではないので、あくまでも予想だけれど。以前、「世界が11次元であることがM理論によって証明されたんですよね?」と素人の方から聞かれたのだが、「誰がそんなことを?」と聞き返してしまった。話がだいぶそれてしまった。元に戻そう。

さて、同じ「過去を探る研究」ではあるが、歴史においては人間の誤解や勘違いが非常に重要な役割を果たしている。科学では、勘違いや誤解は自然によって訂正される運命にあるが、歴史の場合はそのままそれはそれで新しい世界を作ってしまう。ちょうど単語の意味が最初の意味を失って、時代ごとに新しい意味を獲得するように。そしてひとたび新しい意味を獲得した後は、それこそがその単語の「正しい」意味になって、誤用や勘違いと呼んでいいのかどうかも怪しくなってくる。この、「人間が絡むことによってどうしようもなく変化してしまう」あたりがたまらなくいい。その不安定性がどこで発揮されて、これまでの流れを捻じ曲げ、別の平面に飛んでしまったのか、これが知りたくてたまらないのだ。簡単な例をあげれば、都市伝説が何をきっかけにして生まれたのかを知ることもそのひとつだ。

僕にとって金曜の夜は、そうした知的興奮を味わえる日だったのだが、何故か中学に入ったあたりから金曜の夜は特別な夜で無くなってしまった。『謎学の旅』がいつ放送終了になったのかは覚えていないが、主な理由はそこにあったのではなく、小学生の頃と違って夜遅くまで起きているのが普通になったり、部活などのためにそこそこ忙しくなったからだろう。そしてそうした日々はしばらく続き、大学院生の頃に至っては曜日の感覚などほとんどなくなった。塾講師のアルバイトがある日と無い日という程度の意味はあったかもしれないが、しばらくアルバイトがない時期などは、日曜に研究室に行って、大学構内の人の少なさに「あれ?今日、日曜?」などと思ったものだ。しかも塾講師は9年間やったが、そのうち7年くらいは毎週土曜日に授業を持っていたので、金曜の夜はゆっくり出来る時間など無く、好きな曜日とはとても言えなかったのだ。

ところがカナダに来て、再び金曜日の夜が好きになり始めた。研究者というのは四六時中何かを考え続けている生き物なので、仮に土曜が休みの日でもそれを忘れてしまい、金曜だからと言って特にどうこう思わないという人もたくさんいるのだが(そして東大でポスドクをしていた頃の僕もそうだったのだが)、こっちの連中は金曜にイベントを行うことがとても多く、いやでも区切りがついてしまう。土日に研究所に来ることがあったとしても、前日の金曜には大騒ぎするのだ。しかも酒の席で仕事の話はほとんどしない。するのはもっぱら中高生の頃にしたような馬鹿話なので、完全に「仕事スイッチ」をオフにすることが出来る。僕のように酒が全く飲めない人間であっても、である。結婚したため土日にはあまり研究所に行かなくなり、妻と過ごすようになったことも一因かもしれないが、いずれにせよ僕にとって金曜の夜は、一番好きな夜の座に再び返り咲いたのだ。

ところが、しばらくして金曜の夜にふっと寂しさを感じていることに気が付いた。そしてそれをよく見つめてみると、小学校の頃味わったあの感覚がもうないことから生まれた寂しさだったのである。知的好奇心を満たす感覚、物事の根源を探る喜び、そしてそういったことに背伸びして首を突っ込んでいるちょっと大人ぶった気持ち。考えてみればそれを最も味わえる仕事として科学者を選んだのだから、金曜の夜に限らず、毎日毎日その喜びを味わえるはずなのに、実は金曜の夜にも、他の夜にも、あのくすぐったいような高揚感が最早感じられないのだ。「科学者のありがたいところは、ずっと子供のままでいさせてもらえるところである」とは、僕の尊敬する研究者の先生がおっしゃった言葉だが、僕にはもうあの気持ちは味わえないのだろうか。もしそうだとしたら、それは取りも直さず、僕が研究者として向いていないということになりはしないか。それとも、僕は今、古い蔵の中で宝島の地図を探している段階にあって、7つの海を股に掛けるトレジャーハンターとしての人生はこれから始まるのだろうか。きっと超弦理論は、それが地図だとわからないくらい大きいのだ。そして僕らが持っている懐中電灯はとっても小さいのだろう。もっと目を凝らせばきっと見えてくるはずだ。子供じみた考え方だと笑わないで頂きたい。何故なら、科学者はずっと子供のままでいさせてもらえるのだから。


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